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物理的対策を 千葉駅高一女子飛び込み [ニュース]

心の闇なんて簡単に救えない。

JR千葉駅で、高校一年生の女子が下り成田エキスプレスに飛び込み、
一時間後に死亡した。
市内在住だというから我が子達と同窓である可能性は無きにしも非ず。
まずはご冥福をお祈りする。

普段からよく知っている駅、さらに娘と年齢が近いこともあって
この事件についての興味が高まる。
興味本位で探ってはいけないとは知りながらも
やはり子を持つ親としては見過ごせないのである。

ネット上にはいろいろな意見があった。
なによりも多いのは「生きていればなんとかなる」
そして「誰かに相談すればよかったのに」
時間の経過と共に出てくるであろう意見は
「家族や学校は何をしていたのだ」であろう。
けれど、16歳の心、特に女子の心理を侮ってはいけない
彼女らの心は実に複雑で、本人ですら扱いに困っている。
ちょっと相談されたところで、対応に困ることが多いのだ。
言うまでもなく、そもそも相談できる相手がいるならば
こんなことにはなっていないだろう。

相談できるほど信頼に足る相手も見つけられず
心の中にどんどん澱がたまっていく。
そしてある日、リミットを越えて身を投げる。
それを止めるのが如何に難しいことか
過激な反抗期を経験した親子ならわかっていると思う。
まあ、大人の自殺にしても同じような事情かも知れない。

命を手放そうとする人たちの心のケアは難しい
熟達したカウンセラーでも至難の業だ。
それならば、せめて電車への投身だけでも物理的に防ぐべきだ。
全国で少しずつ進んでいるホームドアの設置を初めとする対策
国家予算を立ててでも急ぐべきである。
飛び込みたい人が飛び込めないようにする
それだけで本人も、家族も、電車を利用する人も救われる。
まずは「心のケア」などと呑気なことを言っている場合ではない。
本当の意味での心のケアができる人間は少ない。
心を病む人の増加に全然追いついていない。
そのことを早く認識すべきだと私は思う。



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安保採決 自公が強行 [ニュース]

何を慌てているのか。

審議を尽くさなかった国会に対してではない。
数の暴力で強行採決をした与党に対してでもない。
この言葉はあくまでも国民、とりわけ有権者に向けたものである。

この国の危うさは昨日今日に始まったことではない。
それは教科書を見るまでもなく歴史が証明している。
それなのに監視を怠ったのは誰なのか。
与えられた平和に漫然と酔い
どうせ何も変わらない、他よりはマシと
安易に現政党に投票したのは誰か。
往復まで考えたところで大した時間もかからないのに
投票箱の前にその身を運ばなかったのはいったい誰なのか。

ここ数年の与党、とりわけ首相の動向を見ていれば
こうなることなどわかっていたではないか。
先の選挙は最後のチャンスだった。
それなのに結果はご覧の通りである。
いよいよ法案が通過しそうになってから慌てたところで
いったい何ができるのだろう。

私の友人知人には自衛隊関係者もいるし
ご子息が隊員という方もいる。
特に息子さんが隊員であるお母さんの嘆きは深い。

一日も早く除隊して帰ってきてもらいたい。
失業しようが、引きこもりになろうがかまわないから
とにかく自衛隊から遠ざかって欲しい。

真剣な眼差しでそんなことをおっしゃる。
当然だと思う。
政治に無関心であっても
我が子に迫る危険を見過ごせる母親は珍しい。
(皆無とは言わない)
私の子ども達が入隊すると言い出したら
私だって全力で止めるだろう。
同じような親が増えれば入隊者も減り
自衛隊の大きな役割である災害救助も危うくなる。
もしかしたらそれは戦争への道よりも
はるかに現実的な危機なのかも知れない。

このきな臭い空気が漂い始めてからもう何年になるのか
その間、私はただひたすら子ども達に言い続けた。

「とにかく勉強、特に外国語の力をつけなさい。そして、この国が危ないと思ったら
さっさと国外に逃げなさい」

この国には政治の暴挙を止める力はない。
いつだって手遅れなのだ。
強行採決が可能な状況がある限り
どんなデモも抗議も与党の暴走を止められない。
こんな危ない国に我が子を留めておくなんてできない。
ましてや彼らは投票権を持っていない
選挙をおろそかにした大人達の犠牲者なのだ。
親も国も捨てていい。
安全なところに逃げなさい。
我が子にそう言わざるを得ない苦悩。
多数決の暴力を思い知らされる。

平和憲法に守られた我が国は安全な場所だった。
少なくとも今までは……
けれど、もうこれからはそうではない。
日本が標的になる日がやってくるかもしれない。
小さな島国である日本ほど標的にしやすい国はないのだから

それもこれも自業自得。
あの政権を選んだのは日本国民だ。
投票すること、あるいは棄権すること。
全ての選挙行動の結果が、今の日本なのだ。

歴史が変わるこの日。
深い怒りと計り知れない不安とともに紙面の見出しを睨む。



















集団的自衛権行使容認閣議決定 [ニュース]

投票した奴出てこい。

古い漫才師の台詞ではないけれど
責任者出てこいと叫びたくなる。
いったい誰が彼らに政権を取らせたのか・・・
だがもうそれは言っても仕方がない。
多数決による民主主義は往々にしてそんな悲劇を生む。
これ以上は悪くならないだろう・・・なんて
政治を『過信』した結果であり
あんなに低い投票率で議員を選出してしまうような
下らない選挙制度を認めているの我々が悪いのだ。

決まってしまったことは仕方がない。
あの自分たちが戦場へ行くことなど微塵も考えない
政治家達はこれからもぬくぬくと生きていくだろう。
けれど、ただひとつだけ、これだけはお願いしたい。

どうか、すべての自衛隊員に意思確認をしてほしい。

入隊にあたって、国民を守るという尊い志を抱き
過酷な訓練を経て任務に就いている全ての隊員。
彼らは誰一人、集団的自衛権の行使など
念頭に置いていなかったはずだ。

武器を持たず、戦いを挑まず、黙々と平和的協力をする。
その前提で入隊した人たちに
いざとなったら人を殺せますか、と訊いてほしい。
そして、それはできない、と答えた人を
決して非難することなく退職させ、その後の職についても
出来うる限りのことをして上げてほしい。
天下りだとかなんだとか、この国は大得意のはずだから。
労働条件の大前提が変わってしまったのだから
それぐらいのことをするのは当然だと思う。

友人知人に、何人か自衛隊員がいる。
幹部もいればそうじゃない人もいる。
彼らのこれからを思うと気持ちが暗くなる。
そして、すぐそこでスマホを弄っている息子に目をやる。

もしかしたらこの子が戦場に送られる日が来るかもしれない。
息子に限らず、娘までも武器を手にする日が来るかもしれない。

そうなったとき、私はきっと叫ぶだろう。

逃げろ! 

非国民と言われてもなんと言われても構わない。
人を傷つけさせるために君らを生んで育てたわけじゃない。
日本なんて捨てて
どこでもいいからに戦争を強制されない国に行きなさい。

新聞やテレビで「集団的自衛権閣議決定」という恐ろしい文字が躍った日。
全国でどれほどの母親が、そして父親が我が子を憂いたことだろう。
この憂いをまったく気に留めない暴走政権。
いつか彼らに相応の見返りが来ることを願ってやまない。
人の道に反するとわかっていても・・・・



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都議会議員ヤジ問題 [ニュース]

非常に基本的な問題を。

女性議員へのヤジ問題が何かと物議を醸している。
議場でヤジが飛ぶのは都議会に限ったことではないし
あれこれ報道を拾っていると「どっちもどっち」的な決着を
つけたがっているようにも見えて嫌な感じは否めない。
海外にまで問題が伝わってしまったことに動転して
その場ではにやにや笑いを浮かべていた都知事が
今になって『恥ずべき事態』などと騒ぐのも噴飯物。
そういったあれこれを全部すっ飛ばしての素朴な疑問。

議員がその一番大事な職場である議場で
自分が言いましたと申し出ることができないような発言をしていいのか。
「議員だって人間だから私的行動、発言をすることはある」
というのは、政治家にとってひどく都合の良い隠れ蓑。
靖国参拝問題とかマスコミにうっかり漏らした一言とか
全てと言っていいほどこれで片付けてきたのである。

けれど、今回は違う。
この女性議員へのヤジは、明らかに都議会議場で
しかも都議会開催中に発せられた言葉である。
私的発言もへったくれもない。
その発言を、『私がいいました』と名乗ることができない。
逆に言えば、問題発言だと十分理解できるようなことを
『都議会議員の職務中」に発したのである。

女性蔑視とかセクハラとかパワハラとか
もうそういう次元の問題ではない。
しかも、絶対に聞いていたはずの近隣席の人間が
全て口を閉ざして、発言者を特定させないという小ずるさ。
こういう人間ばっかりで形成されている議会が
我が国の首都、東京のお膝元にあるわけである。

そして、言うまでもなく、彼らは国会議員に倣っている。
他党の質問者が質問席に立つたびに
他党の回答者がそれに応えるたびに
発言者から遠い人間がヤジを飛ばす。
あるいは我関せずと居眠りしている者までいる。
国政の場がそんな体たらくでは都政がこうなるのもやむを得ず。

結局のところ、悪いのは我々である。
そういった人間を政治の場に送り込んだのは我々なのだから。
都民じゃないから、と傍観者でいることも
義憤に駆られてヤジを飛ばした議員や彼を選んだ都民を非難することも
どっちも間違っている。
これは国民全ての問題だしっかり自覚して
今後の投票行動に生かしていかねばならない。
政治への無関心と、のど元過ぎれば・・・の繰り返しが招いた結果を
全国民が今こそ直視すべきである。




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フィギュア男子 羽生が金メダル [ニュース]

今の若者は・・・すごい。

15歳と18歳が銀と銅のメダルを取ったと思ったら
今度は19歳で金メダルである。
彼らの年齢を考えたら、まだまだ伸び盛りで
次のオリンピックへの期待は高まるばかりである。

それにしても若いメダリストたちは
私たちの世代から見るとちょっと宇宙人みたいである。
なによりもプレッシャーというものに強すぎる。
特に羽生くんなんて、世界ランキング一位のまま出場して
日本人はおろか、世界中から注目されっぱなし。
さすがにフリーの演技では緊張したのかミスを連発したが
それでもちゃーんと一等賞で金色のメダルを貰った。
(二位の選手が羽生君以上に転びまくったというのは
きっと彼が持って生まれた運の良さだろう)

彼だけではなく、他のメダリストや入賞者にしても
とにかくオリンピックというものを本当に楽しんでいるみたいに見える。
昔は『応援してくださる方のためにひたすら頑張る』が中心だったコメントは
いつのころからか『与えられた機会を精一杯楽しむ』というものに変わった。
負けてもいいように伏線を張っているんじゃないかと思っていたが
最近の若い選手は本当に楽しんでいるからすごい。
いやはや時代は変わった、としか言いようがない。
でもまあ、こうやって至って自然体で何食わぬ顔(と見せてるだけにしても)で
競技に参加し、あっけらかんとメダルを取ってくるのはいいことだ。
絶対に負けられないと肩に力が入りっぱなしでは
いくら実力があっても十分に発揮できないだろう。

10の力を持っていても本番で発揮できるのが6ぐらいしかないとしたら
最初から8しか持っていなくても、その8全部を出し切れる選手の方がいい。
いざというときに、自分の全てを出し切って勝つ力。
それが備わっている人だけがメダルに辿り着くのだろうなあ・・と思う。
そして同時に、十分な力があるはずなのに
なぜかいつも表彰台の真ん中に立てない女子スケーターを思って
ちょっとため息が出たりするのである。




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佐村河内氏騒動 [ニュース]

曲は何も変わらない。

私はこの方についてまったく何も知らないし
この方が作ったとされている曲も意識して聞いたことはない。
有名な曲らしいし、スケートの高橋氏がこの曲で
滑ることになっているらしいから、もしかしたら
どこかで耳にしたことぐらいはあるかもしれない。

他人の作品を自分のものだとして発表することの罪深さは
今さら私が語ることでもない。
佐村河内氏も曲の提供者もどこかおかしいに違いない。
でもまあ、ゴーストというのはどんな世界にもあるし
芸能人が書いたとされる本に関しては
かなりの割合でゴーストライターが使われていると聞いた。
(真偽のほどは不明)
私であれば自分の作品を人の名前で出すなんて
考えただけでも嫌だけれど
本人が納得しているならゴーストでもいいのかも・・・と
思わないでもない。
特に、それによって真の作曲者が納得のいく報酬を受け取ったのであれば
お互いの利益というものが優先されたのだろう。

一連の報道を見ている限り、
世間の非難の大半はこの事件がゴースト云々よりも
障害者を騙ったことに集中しているらしい。
全聾に障害者が、苦難を乗り越えて作った曲だと思っていたのに
自分で作ったものでないばかりか、全聾であることまで嘘だったなんて!
ない障害をあると言って障害者手帳まで貰っていたなんて!
なんてひどい奴なんだ!!

まったくその通りである。
全国で、毎日毎日懸命に生きている障害者への冒涜である。
そのこと自体を否定するものではない。
けれど、ふと思う。
ではこの曲を作ったのが障害者ではないとなったとき
この曲への評価が変わるのだろうか。
ジャーナリスト、作家、音楽家・・・そうそうたるメンバーが
彼の曲を絶賛していたらしい。
彼らの曲への評価は、作った人が誰かによって変わるのだろうか。
だとしたらそれは逆差別というものだと思う。

誰が作ったとしても素晴らしいものは素晴らしい。
世間を欺き、非道な行いの末に生まれた曲であっても
美しい曲は美しい。
障害者が作ったことによる加点なんてあってはならない。
芸術というのはそういう厳しさを持っているべきだろう。

繰り返すが、私は彼が作ったとされていた曲を知らない。
でも、その曲を評価し気に入って聞いていた人は
どうかその曲を嫌いにならないでいてほしいと思う。
こんな事情によって、優れた曲が消えていくのは寂しい。
それがものすごく難しいことだとはわかっていても
そんなことを願わずにいられない。



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センター試験国語の平均点 [ニュース]

百点満点じゃないの?

思わずそう呟いてしまった。
今年度のセンター試験の国語平均点が
97点だそうだ。(中間集計)
凡そ50%の採点率での数字だから
今後少しは変動するかもしれないけれど
それにしても・・と頭を抱えそうになる。

このセンター試験の国語については
昨年も小林秀雄が出題されて物議を醸した。
昨年の平均点が確か101点。
今年は古文・漢文が足を引っ張ったらしく
昨年よりもさらに低下。
これはいったいどうしたことだ・・・
日本の高校生が英語よりも日本語で点が取れないなんて。
(ちなみに英語の平均は120点ぐらい)

それともあれか・・・そもそも出題者のほうがおかしいのか?
センター試験の問題については、教科の如何を問わず
200点満点であろうと100点まんてんであろうと
だいたい6割程度の平均点になるように問題を作成するそうだ。
英語の出題者はその趣旨に沿った出題ができていて
国語の出題者にはそれができていない。
つまり、日本の学生の学力を見誤っている、ということなのか?
こうなるともう学生が悪いのか出題者が悪いのか
わからなくなってくる。

いずれにしても、学生教師共々能力が低下しつつあることは確か。
ここらで本気で何とかしないと、日本の若者はおしなべて
英語はぺらぺらだけれど日本語が不自由な者ばかりになってしまう。
とはいえ、一体どうやったら国語力が上がるのか私にもわからない。
ちなみに、今年の受験生たちは、現代文の得点率はけっこう高かったらしい。
今年の現代文(小説)は古い作品ではあったけれど
まるで今風のちょっとライトな作風で意外と読みやすかったのかもしれない。
文章というのは時代によって変わっていくものだから
こういうライトな文章が一般的だとなったら小林秀雄や古文・漢文との乖離は
ますます激しくなり、理解はさらに浅くなるだろう。

源氏物語にしても枕草子にしても
それらを題材にした小説やコミックがたくさんだされている。
導入としてそういう作品を読むことはいいことではあるが
それだけで読んだ気、わかったつもりになることはとても危険だ。
大まかな概念と世界観を頭に入れた上で
原典を読み直すというような作業が必要とされるのだろう。
とはいえ・・そういうことをじっくりやるには今の学生は忙しすぎる。
一番の問題は、そこにあるのだろうなあ・・なんて
学生たちに同情してしまうのである。




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第150回直木賞 [ニュース]

女性作家躍進の陰で・・・

通算150回目となる直木賞の受賞者が決まった。
当初より賞としての権威は随分下がっているし
横山秀夫さんについての一連のあれこれは
あまりにもひどい成り行きで選考委員の見識を疑いもした。
(特に、他人の発言の尻馬に乗った女性選考委員はひどかった)
けれど作家の多くはやはり芥川賞、直木賞を
受賞することを誉れとする者も多いだろう。

今回直木賞を受賞された姫野カオルコさんは
私がとても好きな作家で昔からずっと愛読していた。
何度も候補にあがりながらも受賞に至らず
今回ようやくの受賞であるから本人も嬉しいであろうし
ファンのひとりとして大いに喜んでいる。
また朝井まかてさんは平成20年のデビューで現在54歳。
遅いデビューであったとはいえ
経験を積んだ大人にこそ書ける作品で見事に受賞を果たした。
私など遠く及ばぬとはわかっていても
書き続ける勇気を頂いたような気になってしまった。

晴れやかな笑みを浮かべる写真を拝見して
それにしても・・とちょっと想いがよそを向いた。
最近、この手の賞の受賞者に占める女性の割合が
とても多いような気がする。
女性の進出というのは喜ばしいことではあるが
やはりこれは出版不況の関係があるのではないかと危惧する。

物書きは食えない、というのはよく言われることである。
本が売れなくて初刷り部数がどんどん減っていき
単行本、しかも文学賞の対象となるような一般文芸の作品は
一冊上梓してもかつてとは比べものにならないほどの印税にしか
ならないのだそうだ。
だから作家を目指す人はどうしたって二足わらじならざるを得ない。
扶養家族を持っていればなおさらである。
仕事の傍らで時間をひねり出して文字を綴る。
その状態で優れた作品を生み出すのは相当な努力が必要となる。

その背景を考えたとき、女性と男性の性差というものが
かなり大きく関係してくるように思う。
以下は例外もあるという前提で記すが
女性というのはながら作業に向く性である。
味噌汁を作りながら野菜を茹で、肉を焼く。
そんな作業を同時に並行して行える特性を持っている。
知識の追求にしても浅く広くが持ち味。
ところが男性というのは真逆である。
とにかく一つのことに打ち込み狭く深く掘り下げる。
一旦熱中し始めたら後ろで火事が起こっていても
気が付かないのではないか、と思うときもある。
生活のために二足わらじ、三足わらじが必要となったとき
執筆活動を諦めることなく続け、成果を出せるのは
やはり女性ではないかと思う。

男性作家が生まれる土壌が失われつつあるのではないか。
優れた書き手はどんな状況であっても
世に出てくるに決まっているが
女性に比べて裾野が狭くなっていないか。
だとしたらとても嘆かわしいことだと思う。

男性にしか書けない作品がある。
女性にしか書けない作品もある。
その両方が一斉にまな板に載せられて
あらゆる視点から評価、分析されることが望ましい。
それでこそ価値ある賞となる。

優れた作品を生む土壌が失われつつある。
読むに値しない作品ばかりだから本は売れない。
その悪循環が果てしなく続いている。
だからこそ私のような書き手が入り込む隙間もある。
けれど日本の文学界にとってそれは喜ばしいことだろうか。
優れた才能が現実の重さに潰されていく。
いったいこの現状をどうしたらいいのか。
小さく、そして深くため息をついてしまった。



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不明女子小5生保護 [ニュース]

まずは無事で良かった。

神奈川県で行方不明になっていた女の子が
昨日無事に保護された。
こういった行方不明事件の大半が
かなり辛い結末を迎えることが多い中
怪我ひとつなく発見されたことはとても喜ばしい。
けれどその後の報道を見ていると
どうにも腑に落ちない・・というか気持ちが悪い。

四日間の行方不明の間におきたことを
全て覚えていないなどということがあるだろうか。
二つや三つの幼児ではない。
小学校五年生といえば身体だって大きいし
中身も相当しっかりしてきている。
個人差はあるにしてもこの年頃の女の子は
大人顔負けに口が達者だったりもするのだ。
それなのに何も覚えていない。
衣服も汚れておらず、空腹といった様子も見られない。
となると、やはり疑われるのは誰かに拉致されていた可能性であろう。
あるいは本人の意思により誰かと行動を共にしていた。
その上で彼女はその事実を隠している。
そうとしか思えないではないか。

ただ単に、ちょっと親しい大人としばらく遊び続けて
思ったよりも大騒ぎになってしまって怖くなって
何も言わない方がいいと自分で判断したならまだいい。
万が一、誰かに拉致された挙げ句、
その事実を隠すように強要されているとしたら
彼女の精神状態が心配でならない。
『もしも誰かに言ったらひどい目に遭わせるよ』なんて
犯人(?)に耳元で囁かれている可能性もある。
そしてそんなことを囁く悪漢(死語だな)が
そのあたりを平然と歩いているとしたら・・・・

この小学五年生と入れ替わりのように
中学一年生が行方不明になっている。
二つに事件の発生場所は遠く隔たっているから
関連性はないとは思うけれど
どうにも不気味で落ち着かない。
我が家の娘が同じように行方不明になったら
と思うと気が気ではない。

見つかった五年生の女の子から
事情を聞くことはとても難しいだろうとは思うし
女の子にとっても負担が大きいには違いないけれど
事件の真相を速やかに解明して欲しい。
それと同時に中学一年生の女の子が
無事に保護されることを心から祈る次第である。



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猪瀬知事辞職 [ニュース]

あんなに強い武器を持ちながら・・・

ペンは剣より強し、という時代ではないのかもしれない。
どんなに筆力のある作家であっても
凶弾の前には無力であることは確かで
しかも何の怨恨もなくても通りすがりの犯罪で
命を落とすこともある時代なのだ。
どれほど巧みなペンであってもできることは
限られてしまうのかもしれない。

けれど、石原前知事、猪瀬知事をみていると
なぜこの人達が政治家を目指したのかわからなくなる。
どちらも作家としてとても素晴らしい才能を持ち
その作品が世に与えた影響は大きい。
(たとえ過去の偉業と言われても、である)
彼らがやろうとしたことは
作品を書いて発表するという手段では
成し得なかったのだろうか・・・

作家の仕事は文章を書くことである。
書いた文章で人の心を動かすことである。
その感情の好悪は関係ない。
肯定であろうと否定であろうとかまわない。
とにかく読んだ人間に何らかの感情を抱かせること
それこそが作家の本分だと思う。

世の中を変えていくのは一人の政治家ではない。
政治を変えるのは国民だ。
今の日本は、その国民が何もしないからこそ
こんな状態になっているのだと思う。
諦めて、どうでもいいと投げやりになっている国民に
それでは何も変わらない、と訴えることが必要。
腐った政治を曝き、国民に知らしめ
これではだめだと思わせることが重要だろう。

石原氏も猪瀬氏も優れた作家だった。
それならばいたずらに政治に手など出さずに
書き続けていればよかったのではないか。
一国民として政治のあり方を追求し続け
啓蒙活動を続けた方がよかった。
私にはそんな風に思えてならない。

そしてその一方で
社会の裏側を追求し続けている作家を
次々と政治の世界に引っ張り込む各政党は
もしかしたら、彼らを多忙に、あるいは失脚させ
最大の武器であるペンの力を奪うことにあるのではないか・・・
なんて穿ったことを思うのである。



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